断捨離掃除をしていたら、昔の日記。
手を止めて読みだすと、なんと。
「意識というものは自分の鏡のようなもの。
意識の中にあるものはそのまま実現される。
同じエネルギーが天才を作り、犯罪者を作る。
聖者は裁かない。
聖者はかつて在ったもの、将来あるものすべてだから。」
こんなこと考えていたんだ状態。
なぜこの道をまっすぐ進まずに曲がりくねった道を進んでしまったのか?
現実にとらわれすぎた?
自分の居場所作りができないまま、人生の荒波に翻弄された?
しがみつくことしかできなかった。
その時の私はきちんと考えること避け目の前にことに集中。
とにかく仕事は頑張りましたよ。
子育てはその次後回し。
家族が立て続けになくなって、
子供二人を抱えて、協力してもらえると甘んじていたところに、
母の生前から父の愛人気取りの従業員の存在。
私の被害妄想が作り出したバーチャル世界であったかもしれません。父からは、いつも「被害妄想だっ。」と言われてました。
嫌味にも笑顔でにっこり答えることができるようになって、
十数年バトルに費やしてきてしまいました。
大バカであったと思います。
日記の裏に書いた言葉はその当時、頭でわかっていても、
実感が伴わなかった言葉。
早くに人生にとっての宝物を見つけ出していても、
大事にしていく覚悟や、精神の成熟度が伴わなければ、
それに見合う現実を用意されるのかもしれません。
まじめに考えすぎて苦労を呼び寄せたのかもしれません。
その時苦しくても、悲しくても、情けなくても。
ほんとみじめでも。
その状態を作り出している自分の心を確認していくしか、
確かな改善方法は生まれません。
その状態(嫌な)を経験しなければ具体的な、
その対応策も生まれません。
おバカのためいらぬ苦労をたくさんしたけど、
そのために得ることもあるのだ。
開き直るしかありませんが、
自分をほめてあげられるのは自分しかいません。
悟りたくていろんな事書いてた上滑りなむかしの自分より、
少し自由でいることもできるようになります。
どん底の時は、自分のことを振り返る時間もなし、
相談できるところもなし。
ないない状態。
リラックスして自分が楽しいと思えることをして、
(感情、感覚を大事にする。客観的に見て大事だからとかよりも)
大事に自分を扱うことが人生を有意義に過ごすことにもつながります。
これからはもうそれしかしないことに決めていますが、
感情の嵐は恐れずに、
もう一人の自分が少し離れたところで眺めるように、
心の余裕をもっていけたらいいなと思います。