ヴェロニカは死ぬことにした パウロ・コエーリョ
あらすじは旧東ヨーロッパにある精神病院でのお話しなのです。
塀一枚隔てて互いにあちら側の人間は自分とは異なるというとらえ方を互いにしているのですが、
同じように悩み退屈をやり過ごす人生はどちらも同じであって、
その両者を分け隔てるのは「普通」という言葉。
普通であるか否か。
この普通のラインに合わせるために人生を費やし自分の本当に求めていることがわからなくなった人達。
その空しい自分の人生の流れにおいてもがきながらも自分を取り戻そうとする過程にいる人たちが、
世間からは狂人と呼ばれ今はまだ一人ではおぼつかないため立ちあがるためのリハビリしている場所のように思えました。
主人公のヴェロニカは両親から愛し続けてもらうために自分の多くの欲求を捨ててきた人でした。
自分が何をしたいのかわからなくなりこの世が同じことの繰り返しに見え生きる意味が見いだせなくなる。
何のためにいきているのか?
その問いかけにいろいろな答えが返ってきます。
「人は退屈を免れるために普通のことを複雑にする。普通を複雑にするしか差別化できない。普通の生活とは?普通に合わせようとするときの微妙なずれや矛盾の積み重ねが狂気へとつながるという結果を導き出した。」
「狂気とは自分の考えを伝える力のないこと。私たちはみんな何らかの形でくるっているのよ。」
「彼女には自分らしく生きるための十分なエネルギーが残っていなかった。みんなのように幸せになるために誰か他の人が必要だったのに。」
「人生の無意味さが自分の責任以外の何物でもないということを受け入れ始めた。」
スピリチュアル系だけあって面白かったのは、
神秘学や、瞑想、スーフィー教等がワークとして取り入れられていたり、
インシュリンショックというこの病院特有の治療があり、
意識を低下させてから幽体離脱させて魂レベルで自由を体験させるという場面がありました。
「社会はどんどん過剰な秩序から形成されていき、
ますますルールが増えそのルールに矛盾する法律と、さらにその法律に矛盾するルールができていく。」
「規範となる見えない規則の外に一歩でも踏みでるのを怖がった。」
「この花に集中して本当の私を出してあげなさい。」
「人生の残り数日にして彼女はようやく自分の大きな夢に気が付いた。
心から、魂をこめて思う存分気の向くときにいつでもピアノを弾くこと。」
「神はそこにいるのに、人生はただ信じることだということを受け入れるのでは簡単すぎるから。」
「人が自分の本質に逆らうのは人と違ってもいいという勇気にかけてるから。そうしたら。。。憂鬱を生み出す。」
自分を押さえこむだけ抑え世間に合わせて生きてしまった場合に、
生きるためのエネルギーがわいてこなくなってしまう。
弁護士のマリーの言葉ですが、
「ためるだけの貯水池にはならず、あふれる噴水になりなさい。」
そのためには自分という軸をしっかり保ちながら周囲と調和を図りつつ、
自分がこの人生でやってみようということに勇気を出して挑戦していかないと循環していかない。
ためるだけの貯水池は最初のうちは綺麗な水でいられるかもしれませんが、
いつかは腐ってしまうという意味にとらえました。
コミュニティの問題で自身が発案提示したのち、
いろいろな条件の変化によって意図した方向ではないほうに大きくなっていくコミュニティではいろいろな問題が起こりがちです。
軸となる発案者もしくはコミュニティを維持する中心人物がしっかりそのコミュニティで何をしたいのか、また外からの要求に対してはどのように判断して取り入れていくかを最初にきちんとなんとなくでも決めておかないと巻き込まれてしまうという流れに似ていると思いました。
先を見ながら活動しつつ修正していくということがコミュニティの運営に必要なのだと思います。
現場を見ず、丸投げして、現状維持の姿勢では外からの刺激に振り回されるのだと思います。
コミュニティと一人の人間の人生と比較は飛躍しすぎかもしれませんが、
軸=あるべき姿、ふさわしい姿(理想とするもの?)を常に思い描き、
問題は山積みでもこの本ではその活動あり方について、
信じることとやり続けることで変化が生じてくるといっているように思いました。