今日も父のもとへと日参してきました。
こんな生活を続けてはや半年以上が立ちます。
父が不安定な時には気が付くことができなかったことですが、
気分転換に地元の自然を写真に撮るようになり、
とても大切なことに気が付くことができました。
地元はとても自然が豊かです。
この年になるまで自分の足元をきちんと確認したことがないことがばれてしまいますが。
今年は春がなかなか来なくて寒い冬が居座りました。
そこで暖かくなり始めたときの木々の萌え方といったら。
とてもとても言葉ではうまく表現することができないくらい見事な美しさでした。
それを皮切りに小さな雑草のつぼみやら、
夕日に輝いてきらきら光る葉っぱやらを撮りだしました。
一つ一つ違って個性的です。
一番好きになったのは今まで見てたけどよく見てなかった雑草君。
車道のアスファルトの裂け目からようやっと芽をだして、
ひょろひょろ~と伸びて優雅に車が通るたびに揺れています。
思い入れが激しすぎるかもしれませんが、
とてもとても頑張ってるなと感じたのです。
もう一つは最初木陰できれいに伸びていたくさむらくん。
だんだんと綺麗な花を身に着け始めています。
ところがあるところでは太陽の光をしっかりと受け止めて寸足らずでも、
そこではそこなりに花を咲かせているその君がいたのでした。
花は何も言えませんが、
与えられた場所で懸命に生きる(どこかで聞いたような文言?)ことを、
強く感じました。
その二つ以外にも自然の雨風に打たれ吹かれながら、
のびのびと咲いているアザミの集団。
でも田植えが過ぎたころには農家の方の草刈りの対象として刈られてしまいました。
父が入院している時間(その病院に)や私の体力を考えると、
仕事をしながら午後こんな風に自由に動くことができるのは今しかいないという焦りというか一期一会を強く感じた風景でした。
それよりなによりこの年になってと笑われてしまいますが、
もう一つ大きな事を教えてもらいました。
狭い人間だけの世界でこんな風に思い込んでいたということを教えてもらったのです。
いろいろな制約がある中、人生の荒波も越えてきたと思ってはいましたが、
なぜこんなにも生きにくいのかの原因がわかりました。
人間界を花の世界に例えてみたら、
花屋さんの冷蔵室に入れられている花が一番と思っていたのです。
それになるべく努力をした生き方、自分でなければ認めてもらえない、、、。
そのように生きなければならない存在は確実にいます。
でも私はそれではありません。
でもそうだからと言って卑下することもないのです。
自分なりに精いっぱい生きて毎日を大切に生きることが基盤にあったのなら、
地元の自然のように美しく生きていけるのだということを写真を撮るうちに、
野草たちが教えてくれました。
幼児教育が盛んです。
私の母も教育ママでした。
馬の骨と言われ知り合いのいない田舎に嫁ぎ、
娘しか産めず何とか医者にさせて跡継ぎをと頑張らねばならなかったのは今ならわかります。
でもその環境には私自身をありのままで認めてくれる存在がいなかったです。
父の代わりに参加した小学校の保健委員会では、
重箱の隅っこつつきに近い子供の減点チェックではなく、
家庭内だけでもあなたがあなたでいることだけではなまると言ってほしい叫びました。
どこかそのままの自分を受け入れてもらえる場所が子供には必要です。
頑張りすぎて疲れ果てていることを隠すように気を使っている子供は、
のほほんとしている子供をいじめるようになってしまいます。
私が仕事で子育てできない分のほほんと過ごした息子は、
文武両道で先生の覚えのよいクラスでは人気者である、
「えっ?まさかそんなことするの?」というお子様たちにいいようにやられました。
でもその当時私も息子をありのまま受けれることができたかというとできませんでした。
ごめんよー!むすこ。(泣)
条件つきの何かでいつも自分をあしらいはや50数年。
いつも心の底にあった焦りはいつも自分以外の何かにならなければいけないという思い込みから生じていたものでした。
(頭ではわかっていけど、ここまで入り込んでいませんでした。)
自分に自由な時間をあげることもしてきませんでした。
子育て中に自分だけ遊ぶなんてとくそまじめすぎました。
(今は違いますよ。子供ほったらかし上手になりました。)
スキルばかりを追い求めていましたが、
基本ができていなければどうにもこうにも変化することは難しいです。
どんな世界でも自分のまんまでいいんだよーーーーー。
そこからやっと自分がそのままでいいと思える幸せにつながると思います。
You are good at leaving you.
あなたはあなたのままでいい。
The diversity of nature will tell you so.
自然の多様性がそう教えてくれます。